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私の半生

GATEWING GROUP 代表:關 敏

第一章

半端者の失敗編

小学校から変わった子だったと思います。通信簿の「協調性」の欄はいつも「C」・・・
幼馴染の二人は、大人びて優秀で、何をやらせても卒なくこなし、成績もスポーツも何でも優秀でした。程よく、悪いことも(笑)。
それに比べ、自分はというと何一つ誇れるものはなく、幼心に劣等感を抱いていました。
スポーツも勉強も中途半端。そして周りに上手に合わせることが出来ない。

今振り返って思う事は、この頃、必死だったと思います。
自分は何が出来るのか・・・?
野球やサッカーなどのスポーツはもちろんのこと、音楽のバンドをやったり、ビリヤードをやってみたり、色々なことを試してきましたが、どれも結局中途半端に終わりました。

今、思うと自分が一番になれるものを探していたのだと思いますが、学生時代には自分がこれだと思うことに巡り合うこともなく、悶々とした中で学生時代を終わったように感じています。

そして学生時代の終わりが近づき、社会人の人生を選ばなくてはいけない年になり、就職活動でいただいた内定先に一旦は落ち着こうと思っていました。
しかし、どうしても気持ちが向くことはありませんでした。
それは「このまま終わっていいのか」と、考えていたからでした。

その頃、大きな決断を迎えることになる出会いがありました。
私は、学生時代バンド活動をしていたので意外とお金を使う生活をしていました。
学業はそっちのけでした(笑)。
引っ越しのアルバイト、飲食業のアルバイト、ガソリンスタンドのアルバイトなど様々な仕事をしました。
この経験が後々の将来にいろいろな意味で活きてきていることになります。
ガソリンスタンドでは、営業の仕方を覚えて今の営業に繋がっていますし、引越しは、かなりきつい体力仕事なので人の3倍働いても壊れない丈夫な基礎体力を身に着けられたと思います。

アルバイト先のガソリンスタンドの先輩のお知り合いの社長さんが、パキスタンで一緒に仕事をする人を探しているという話をもってきてくれました。
「このままでいいのか?」と悶々としていた私にしてみたら、「すべてを変えられるかもしれない!」というワクワクでいっぱいのお話しでした。
すぐに「やります!」と返答し、内定先にはご迷惑をかけてしまいましたが、お断りの連絡をさせていただきました。
当時は、海外赴任は今の時代ほど身近ではないことなので、当然のごとく両親は反対し、祖母まで巻き込んで内定先に行くように説得をされました。
しかし、「このままだとたいした人生が歩めない!」と思っていた僕は、家族の反対を押し切り、無理やりパキスタンに赴任しました。

コンサル会社に就職したと思っていた僕に与えられた仕事は、パキスタンでの日本料理の開店と運営のお仕事でした。
なぜ、僕か?と理由を聞いてみると、「飲食店でアルバイトをした経験が長いから」・・ただそれだけでした。
飲食店を開くのに、コックさんの採用(友達を採用しました)、英語でのマニュアル作り、店のレイアウト作り、メニュー作り、仕入れの品の発掘など。
特にお刺身がないパキスタンにおいては、刺身になりそうな食材を探してくることがとても難しかったです。
そんな開店準備が終わると、店のオープンに向けての準備でした。
スタッフの採用、トレーニング、法人営業、接客(日本人がやっているというマスコット的なポジションでした)など様々な業務を行いました。
今考えても、いきなりすべてをやらせてもらえたことは幸運なことでしかありませんでした。
しかし、良い時代はすぐに終わりを迎えます。

日本人の社長、パキスタン人の政治家、経営者で作った合弁会社は、日本人社長とパキスタンビジネスパートナーとの不和、パキスタン自体にクーデターが勃発し、問題解決能力も覚悟もない僕には帰国を決意する理由にするには十分でした。
何も成し遂げられていない現実で失意のうちの帰国。
日本に帰って、よくわからない自分のポジション、一回すべてをリセットしたいと思い、その会社を離れました。
地元の友達は社会人として活躍をし始めているのに、自分には何も誇れるものがない・・。
そんな思いを持ちながら努力を大してしていない毎日で、フラフラしていました。

そんな頃、コンビニにあった転職雑誌を開くと1ページ目に「経営コンサルタント」になりたい人へとのメッセージが目に飛び込みました。これが自分の運命を大きく変えていく出来事でした。

第二章

飛躍編

当時、サンマルク、車の買取会社のガリバーを支援して急拡大・急成長をしてきたベンチャー・リンクという会社との出会いでした。
ゴルフパートナーや牛角がこれから伸びていくから、ここを支援するコンサルタントを募集しているということでした。
「何かかっこよさそうだな」と、浅はかな判断基準しか持ち合わせていない僕は、コンサルタントって「かっこよさそう!」という薄っぺらな動機で応募しました。
なぜ採用してもらえたか?
今でもはっきりは分かっていません。
面談もテストもたいして出来たようには思えませんでした。
上司は「面白枠」で採ったとおっしゃっていたので、多分パキスタン帰りというキャリアが良い意味に働いてくれたのだと今では思っています。
いずれにせよ、他の人の倍以上の5回の面接を重ねて入社させてもらうことが出来ました。

私の人生で、とても重要なキーワードになっているその時の上司が面接の最後に言った言葉を紹介したいと思います。
この言葉が今でも僕のお守りになっています(※今ではブラックになるのでやめた方がいいです 笑)
「私たちは人の3倍のフィーをもらっています。であると、人よりも3倍の質の仕事をするか?3倍の量の仕事をするかしかありませんが、何の経験もない關さんは、3倍の質は出来ないと思うので、3倍の量をやり続けることが出来ますか?」
と決意を求められました。
そしてさらに
「3倍の量の努力を3年間続けると關さんは26歳ですから、3年で9年分の経験が出来ます。
そうすると29歳の時に22歳から努力してきた人を追いつけるということになります」
この言葉の迫力に
「はい。わかりました。3倍努力をします!」
と約束をしてベンチャー・リンクでのビジネスをスタートいたしました。

入社はさせてもらったものの、パソコンの使い方すらわからない。何をするべきかもわからない。
本当に努力をしてこなかった私は、あっという間に落ちこぼれになっていきました。
当時、後輩だった子が出世候補で私は出世候補にはまったく入ることはありませんでした。

少し腐りかけていた頃、運命の業態の担当になります。
当時は全店赤字だった今では全国に300店舗以上ある「温野菜」というブランドです。
温野菜は上司が活動して、私は相変わらず下っ端の方で気楽に活動をしていました。
しかし、ある日、その上司は心の病に倒れ、突然15店舗以上あった温野菜ブランドの担当は私一人になりました・・・
そして上司から途端に責任を追及されるようになりました。
業績が動かない責任はお前にあると言われました。
本当に無責任だった私は、意味が分かりませんでした・・・
ですので、毎日毎日怒られます。が、それでも僕の性質は中々変わりませんでした。
その半年後、温野菜は4店舗が一気に立ち上がり、さらにその半年後に4店舗が立ち上り、出店を止めていた温野菜は再度出店に向けてスタートしました。
それには様々な変わった理由がありました。

・上司から「4店舗でいいから立ち上げろ」とゴール設定を明確にしてもらったこと。
・毎日アウトプット(ゴールと振り返り)をする。納期通りに仕事をする管理をされたこと。
・自分の内面を見つめる研修に参加させてもらい、「言われたことだけやればいい」という思考回路になっていたことに気が付き、自分で「どうしたいか?」という主体的にゴール設定をすることに変わったこと
などなど・・・

もちろんそれもありますが、本当の変化の理由は「心から相手のためにどうにかしたい」という想いが初めて生まれたことでした。それは、ある出来事がきっかけでした。

あるオーナーさんが業績不振で店を閉められると聞いた時から始まります。
オーナーさんは、お金を運送会社で貯めて、すべてのお金を使って出店しました。
生まれたばかりのお子さんと奥さんを幸せにするために。しかし、温野菜事業は上手くいかず私自身もどこか他人事、責任感はなかったように思います。

赤字は続き、人も削り、最後はオーナーさんと奥さんと数名のバイトで運営をしていましたがそれでも出費は止まらず。とうとう店をたたむことになりました。
最終日、オーナーさんと奥様から、「關さん色々お世話になりました。今までありがとうございました」と挨拶してもらい、お二人の背中を見ているとき、自分は何もしていないのにお世話になったと言われたことが、本当に自分に情けなく、情けなく・・・人生でこれほど自分を責めたことは初めてだったと思います。
それから数カ月後に、今度は別の店のオーナーさんが全く同じ境遇になりました。
私は、もうこれ以上、二度と不幸な人を出してはいけない。と思い、支援しているオーナーさんと資金繰りを確認し3ヶ月以内に売上を倍にすることを決めました。

誰もやらなくても、俺はこの人やこの人の周りの人のためにやる!と、人生で他人のために本気になろうと思ったことは、たぶん人生で初めてだったと思います。
その店で働く方、関係者の方、本当に色々な人の支援をもらい、3ヶ月後、この店の売上は倍以上になり、資金繰りも急速に改善し、今でもお店の経営をして立派なお父さんとして働いていらっしゃいます。

その1か月後に、ちょうど入社3年になりました。
上司とあの時に人の3倍働くと約束し、自分で決意した日から3年間、私は全社で1番の表彰をもらったのでした。
わかったことは、「3倍」とは、単純な時間が3倍ではなく、自分が一生懸命に働き、相手の幸せや発展のために考えていると、自然と他人が自分の目標に手を貸してもらえるような人になり、本当の意味での3倍働くことになるのだろうと感じました。

「人は、独りでは生きられない」多くの人に支えてもらってはじめて自分が成り立っている。

現在の理念である「人の役に立つ。立ち続ける」と思ったこの気持ちの原点は、ここにあるような気がします。

その後、私はマネージャーになり、多くの後輩を一人前のビジネスマンに育てていくことや、幸せにするために方針を決めていく役職をいただいたり、中国の子会社の社長として現地法人で経営をさせてもらったり、日本でWEB系ベンチャーの取締役をさせていただいたりしました。
あの時に得た本当に大事な原点の持つ想いを間違えなくなった瞬間に、いただいたミッションを達成出来るようになっていました。

そして、学生の頃に悶々としていた気持ちの正体が分かりました。
私はずっと自分がどうなりたい。どうなりたい。とばかり考えていて、「他人のためにどうしてあげたい」という気持ちが本当になかったので、スポーツやバンドでも学業でも上手くいかなかったのだろうと感じています。

この世は、自分の思い通りになる世界ではなく、多くの方がそれぞれに幸せになりたいと思い生きています。
それを、「自分が」「自分だけ」となると、当然周りにいる人は、この人は自分のことしか考えていないと手を差し伸べてくれなくなります。
ところが、自分が相手のため、相手のためと動くと、相手も、そこまでしてくれるならちょっとは自分にも有形、無形の力を貸してくれるので、色々な工夫の仕方や正しいやり方を教わり、どんどん成長をしていくのではないかなと感じています。

前半の人生は、自分のために生きて失敗をし続けて後半の人生は、他人のために生きる重要性を理解しました。
私は本当に恵まれた人生だなぁと感じています。
ここからの人生は、本当に周りからいただいたものが大きすぎるので、より多くの人が幸せになっていくお手伝いを頑張ってやっていこうと思います。